『人間の値打ち』というイタリア映画がおもしろかった。
丘の上の大豪邸に暮らすヘッジファンド経営の大富豪一家と、
なんとか中流層に踏みとどまっている街の不動産屋一家、
そして貧民街で犯罪に手を染めながら暮らす人々。
イタリアの格差社会に存在する3階層の人間たちの生活模様や価値観、
行動パターンが、あるひき逃げ事件を交差点として絶妙に入り混じってゆき、
「人は、富や罪を目の前にしたとき、どんな行動をとってしまうのか?」
という視点で、極めて人間的というか、現実的に、うまく描かれている。
脚本もうまいし、映像もよかったし、役者の演技もうまかった。
優雅そうな大富豪が、大富豪であることを維持する、その冷酷な裏側。
金だけを与えられ、ただの飾り物とされ、愛がなく、心が砂漠化して、
情緒不安定な異常行動に走っている大富豪夫人。
大富豪の息子である彼氏に嫌気がさして、偶然出会った貧困層の少年の
繊細さを愛するようになり、恋愛関係になる中流層の娘。
娘が大富豪の息子に気に入られていることを利用して、自身を取り繕い、
儲け話に入れてもらおうとするセコい父親。
レッテルを貼られることを受け入れるしか生きる術のない、貧困層の孤児
の少年。
映画を見ながら、
「このなかで、事件を通して一番値打ちある行動をとっているのは誰か?」
・・・と考えてみるのだが、この作品はあくまでも“人間的な”姿を描くことに
終始しているので、勧善懲悪で結論を出すことはできない。
全員が全員、本人も気が付かないようなところで、善悪や愛憎が複雑に
絡まりあっており、自信を持って「この人!」と断言することが難しい。
そして、このつじつまの合わない人間の姿というものに加えて、
物語のラストに、ある「人間の値打ち」を示す数字がテロップで示される。
この数字を見て、本編以上に釈然としない思いがこみ上げる。
けれども、この数字が一番リアルで、「うわー・・・でもそんなもんだよな・・・」
と思わされるという仕掛けだ。
ああ、平凡が一番だなあ。
でも、平凡を維持するのも、実は至難の業、なのかもしれない。